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「登校拒否」
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入学して直ぐ、僕は柔道部に入った。多分、当時TV『姿三四郎』の放送に影響されたのだと思う(単純;;)。練習はそれなりにきつかったので、体力を付けなければと毎朝食の飯にバターをのせて醤油をかけて掻き込んでいた。一月程経った頃、当たり前の帰結として「胆嚢炎(油脂の取り過ぎ)」になった。何事も過ぎたるは猶及ばざるが如しで、日に日に増量させたことが災いした。そして、学校に、罹患したことと休養のため欠席する旨の電話をした。

電話口には担任が出たが、「その様な名の生徒は、内のクラスには居ません」という意外な返事だった。「はあっ?」っと意表を突かれて狼狽えた後、一週間程静養のため欠席したが、その後は、お袋の作ってくれた弁当をカバンに詰めて「行ってきまーす」と自転車にまたがり家を出た後、そのまま荒川の堤へ....。
 
季節は春だったので、堤の下の野原には一面菜の花が咲き、空には雲雀がさえずっていた。姉の書棚から拝借した「若菜集」(島崎藤村)に目を落とし、昼は春の陽だまりの中で弁当を食い、ひねもすピクニック気分を満喫し、頃合いをみて「ただいまー」と帰宅する日々を過ごした。

もちろん、二週間程で「春のピクニック」はバレた。

当時も今も、大して変わらないと思うが、教師は皆、奥住先生の様に「話の分かる」教師ばかりではなく、結構問題を抱えた変わった方も多かった様に思う。
 
   
当時「登校拒否」という言い方はなかったと思う ...... と、ここで再び青木君が登場するわけですが、彼の持つ「法外」は、何もパチンコばかりではなく、「登校拒否」の許容という点でも優れていた?

よく聞かされたのは、中学の時の同級生で「登校拒否」をしていた同級生の家に「説得」を名目にしてよく遊びに行き楽しかったということ。当時の僕は、ふ~ん、そんなもんなのかなぁ位に、ぼんやり理解していたが、でも世間の常識と違ったことを肯定的に振舞う彼を何処か尊敬していた。もしかすると、同じ様な状況にあった僕に配慮して、そういう挿話に触れたのかも知れないが....。

高校生活の只中にいた頃は、毎日が楽しくて、そのことが忘れられず、卒業して直ぐ、今は体調を崩して療養している岡本君と「もう一度、高校に再入学しようか...」と真剣に話した。結局、商業科なら再入学は出来るが、普通科は出来ないことを知り諦めた。

五十年が過ぎて当時を振り返ると、結構切ない想い出が多い。ただ、そのことが今の僕を作っているのも事実なので、それはそれで悪くない。当時読んだ「若菜集」は、その後、中原中也の詩に移り付箋が折り重なって今も僕を支えてくれている。
 
春と赤ン坊                   中原中也「在りし日の歌」


 
 菜の花畑で眠つてゐるのは……
 
 菜の花畑で吹かれてゐるのは……
 
 赤ン坊ではないでせうか?
 

 
 いいえ、空で鳴るのは、電線です電線です
 
 ひねもす、空で鳴るのは、あれは電線です
 
 菜の花畑に眠つてゐるのは、赤ン坊ですけど
 

 
 走つてゆくのは、自転車々々々
 
 向ふの道を、走つてゆくのは
 
 薄桃色の、風を切つて……
 

 
 薄桃色の、風を切つて
                                   
 走つてゆくのは菜の花畑や空の白雲
 
 ――赤ン坊を畑に置いて 
 
 管理人:東 日出夫  
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