埼玉(sakitama)のこと
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11/03 埼玉(sakitama)のこと
  『夢』 
僕らの時代
「SWEET CANDY」 
「登校拒否」 
奥住先生と「母性」について 
 
僕の住む栃木県が、ついに全国都道府県魅力度ランキングで最下位となった(だから何だ)。実は、たったの18年しか住んでいなかった埼玉県だが、多感な児童期・思春期を過ごした僕にとっていつも気になってきた。今では聞かなくなった「ダ埼玉」だが、これを流布したのはブラタモリでお馴染みのタモリさん。この「埼玉(sakitama)」、その呼称の沿革を探っていくと遠く縄文期に行き着く。

古代語で「サッ≒sa」とつく地名は、異界との境(sakai)に付けられ、何か得体の知れない意味や価値が立ち現われてくるところとされる(『アースダイバー』中沢新一著)。代表的なのが「岬」になるが、この岬だが、元は「御先(前)」と書いて「みさき」、海に突き出た陸と海との境にあたる。
 
縄文海進図
上の図は、大凡6000年前の縄文期に地球の温暖化で海面が上昇し、東京湾の海水が内陸まで進み込んだ図になる。緑色の円は、現在の行田市埼玉(sakitama)辺りで、この地に「埼玉古墳群」がある。つまり埼玉の「埼(saki)」は、岬を意味し多くの縄文人が生活を営んでいた。

そして、埼玉の「玉」は、古代中国で行われていた祈祷(占い)の際使われていた神具に由来すると考えるのが自然だろう(霊=tama と考えても良いかも知れない)
 今回のテーマのベースにあるリソースは『アースダイバー』中沢新一著)にあるが、この著作には多くの興味深い指摘がある。なかでも「土地の記憶は消えない」とする例として、東京の寺の墓を掘り下げていくと80%の確率で縄文時代の墓地に行き着くとある。同じ意味で「埼玉古墳群」の下層には、綿々と続く古代の埋葬地があるに違いない。
 








春の丸墓山古墳(埼玉古墳群)







秋の丸墓山古墳(埼玉古墳群)
 
この様に、地名の沿革を繙き、その歴史を辿ってゆくと、平成の暴挙である町村合併による「さいたま市」といったひらがなによる表記はありえない。これは、一見親切のように見えて、実は地域の貴重な記憶を失い、その出自を辿れなくする。おまけに僕の住んでいた「与野市」も消えてしまった。多感な時代を埼玉で過ごした僕にとって、実に残念な振る舞いに映る。

岬に霊的なものが多く宿るとする考え方は、なにも日本に限ったことではなく、ヨーロッパでも岬をペニスラー(多分ラテン語?)と言って子宝に恵まれる地とされる(これは「ダ埼玉」を流布させたご本人が「タモリ倶楽部」で紹介していた�;;)
 
 
発掘調査された縄文竪穴式住居.......1967年新大宮バイバス予定地
 
(10月26日) 
上の画像は、確か僕が高三の頃に、「新大宮バイバス」が敷設される予定地で発掘された縄文時代の竪穴式住居跡になる。お気に入りのMINOLTAのカメラで撮ったレアなワンショット(なかなか良く撮れているなぁ)。当時の記憶を辿ると、おびただしい数の立派な住居跡が露わになるのを目の当たりにして、ちょっと誇り高いような、今風にいえば「与野ってやるじゃん、やばい!」っていう感じ。それもあってか、あるいは通学路がいつもぬかるんでいたからか、僕はJUNのスニーカーを捨てて高三をゴム長靴で通したような・・・。

この時の発掘調査に、吾与野高校「社会科学研究部?」も参加しており、当時「私たち今発掘調査しているんだ・・・」とSさんから聞かされた記憶があるので、先日確かめたところ「全く記憶にない」と仰る;;(も~何でも忘れちゃうんだから)。
 
 
与野公園弁天池
 
通学路にあった与野公園(与野高の裏)は、もちろん今の様に整備されたものではなく、どこか時代劇に出てきそうな侘しさが漂う寂れた所で、小さな朱の鳥居があったはず。。と、ここでネットで検索してみると、どうやら弁天様が祀られていた様だ。北隣りに御嶽神社、東隣りに由緒正しい円乗院があるので、きっと元は古墳だったりしていたはず。直ぐお隣で縄文時代の遺跡が発掘されているので、古墳の前は縄文の墓地だった可能性も高い。 

(11月3日)
そう、母校与野高校で思い出したのですが、みなさん覚えていないだろうなぁ…当時木造校舎だった職員室の窓ガラスは、よく見るとゆらっとした手吹きの板ガラスが使われていて、更に凝視すると、板ガラスの端に「浦和高校分校」と記されていたのです(多分腐食法で)

Wikipediaで検索してみると、わが母校は90余年の歴史があるとあった。でも僕の記憶だと、風雪に耐えて残った板ガラスの説明を受けたとき、既に67年とか経っている..... といった説明を受けた様な。。何先生から話を聞いたかは思い出せないが、とにかく母校が、それなりに歴史があるということと、「浦和高校分校」という響きに、ちょっぴり誇り高いような、こそばゆい感じをもったことは覚えている。
クラウン法
4〜7世紀頃に登場したクラウン法によって、薄い板ガラスの作成が可能になりました。
クラウン法は、筒状の金属にガラスを付け、膨らましていきます。ある程度の球体状になれば、ボンテと呼ばれる金属の竿を筒と反対側につけ、筒の方をとりはずします。筒を取り外した方は口が開いた状態になりますので、それを熱しながら広げるようにして成形し、さらにボンテを回す遠心力を使って一気に円形状に薄くします。これがクラウン法の概要です。

クラウン法の薄い板ガラスにより、窓へのガラスの使用が多くなりました。しかし、遠心力を使う点で作業者の力によって板ガラスの薄さが変わること、中心部分にボンテの跡が残るなどのデメリットもあり、現代のような整った板ガラスを作れたわけではありませんでした。
(ガラスの工芸と歴史探求HP)

木造校舎 
 
 今回「埼玉(sakitama)のこと」と銘打っていろいろ述べてきたのですが、これ深堀すると切りがない。ただ、言いたかったのは、一般的に持たれている「埼玉」のイメージとは違って、特に関東圏での「埼玉」の持っていた意味はとても大きいということ。つまり、明治4年廃藩置県の後、埼玉県が誕生した際、時の役人および有識者は、当然そのことに気付いており、数ある「県」の中から深い見識をもって敢えて「埼玉」を選んだという事実を伝えたかったというのが本意です。  慶応4年(1868年) - 6月19日、忍藩士の山田政則が武蔵知県事に就任、旧幕府領を管轄する。
明治2年(1869年) - 1月10日、山田政則知県事が宮原忠英に交代。1月13日、宮原知県事の管轄地域に大宮県を設置し、県庁は東京府馬喰町に置かれる。9月29日、県庁が浦和に置かれ浦和県に改称。
明治4年(1871年) - 7月14日、廃藩置県を受けて藩領に川越県・忍県・岩槻県の3県が誕生。11月14日、
忍県・岩槻県・浦和県の3県が合併して埼玉県が誕生
 
(「フォトさいたま」HPより)
  近代だけで見ていると、単に埼玉都民という首都東京の通勤圏内という括りでしか評価されず、大切なものが抜け落ちてしまうということ。

以前、浜野君が銀座の個展に顔を出した時、丁度岩槻市が「さいたま市」への編入を模索していた時だった。それまで人形の町で有名だったことと、江戸・明治を偲ばせる町並みをしっかり保存していた岩槻の見識をこの目で確かめていた僕は(浪人中、春日部の先の武里団地までサッカーの練習に通っていた)「さいたま市に編入しようなんて自殺行為だ」と浜野君に突っ込んだことがあった。

おっと、マジになってきた;;

ということで、機会がありましたら「与野」についても dig してみたいと思います。

では、では。
 管理人:東 日出夫  
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